2012年09月16日

桐島、部活やめるってよ

[65点]@TOHOシネマズららぽーと横浜

 なんかやけに話題になったので、ギリギリで見てきました。

 んー……まず最初に最大の引っかかり点。肝心のラスト、どういう流れで「桐島が屋上にいる」ということになったのか、よくわかりませんでした。丁寧な作品だけに、こういうところで引っかかっちゃうと、個人的にはおもしろさ半減。
 「屋上に誰かがいてセンセーショナルな行動を取った」と「桐島が今日学校に来てる」が結びついてできあがったデマだってのはわかりますよ。でもそれなら、帰宅部A(かすみの彼氏じゃない方)が見た「屋上から飛び降りた誰か」は何だったんだ?
 おそらく「映画部の撮影の何かがそう見えた」だと思うんだけど、それならそうと明確に提示されなくちゃ。じゃなきゃ、帰宅部Aは何を平気な顔をしてそこにいるんだよ。人が一人死んだかも知れないんだぞ。


 ものすごく丁寧な作劇であることは論を俟たないけれど、それゆえに、「だから何?」感も禁じえません。
 物事がすべて自然に起きてゆき、自然に終わる。たぶんあの学校のスクールカーストはこの事件以降もあのままで、自然に棲み分けたまま続くのでしょう。たぶん、ずっとそのまんまだ。
 物事をただマイナスに押し下げて、元に戻るだけのことを「物語です」という手法は、どうも楽しめないです。ほんの少しでもいいからプラスになってくれないと物語に接する喜びがない気がします。本作の場合、マイナスへの振幅すら極めて微少だからね……。
 (逆に「キリストの不在」的な大仰な解釈は、あんまり深く突っ込みすぎると道を誤る感じがしてしょうがない。「前田、部活やめるってよ」だったらこの話はどう変わるのか? 「友達がいなくなる」って、高校生にとって右往左往して当たり前のことでしょう)

 だから、最後にたったひとつだけある、「カースト間の交流」という、この事件による「プラスへの変化」。ここをもう少し明確に締めて欲しかったなぁ。なんで考えオチにしたんでしょうか。

 これを考えオチにしない方法は簡単で、最後の最後で「コール音が切れる」を入れるだけでよかったんです。「コール音が切れる」→「会話が始まる」→「つまりヒロキだけは桐島と連絡を取れる立場にありながら『しなかった』」ことが明確になって、彼のコンプレックスからの脱却がきっちり見えるようになる。
 「コール音が続く」で終わると、やっぱり彼も彼女さんと同じで「ただ連絡がつかなかっただけ」で、ホントにボンヤリ生きてただけ、て解釈も可能になっちゃう。それでいいってのならいいんだけどね……。


 ところで、本作の脚本を書いたのは喜安浩平。
 きやすこうへい……どこかで聞いたことがあるような……

 ……でんぷしぃっ!
posted by アッシュ at 18:47| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ブログ楽しく拝見しました。それで少しコメントさせて下さい。
まず、屋上の少年は結局桐島かそうでないかわかりませんが、あそこに皆を集まらせるための手法だったと思います。あのクラマックスに持って行くための。万が一桐島なら大事な部活をやめて心の整理をするため屋上にいたかもしれません。さらに飛び降りたのは映画部のいう電波塔から。運動神経のいい彼なら怪我もしません。桐島でなければ誰かたまたまいたのでしよう。また、この映画の主題は菊池が全ての才能を持っているにもかかわらず、何も情熱が持てないことに気付きショツクを受けましたが、何か大切なものに気づくということだと思うので希望すらを感じさせるラストで素晴らしいと、私はかんじます。きっと菊池には変わると思います。それがこの映画の劇的な変化でしょう。長くなりましたが、あくまで私見ですので、こういう見方もありかな、とお読みください。
Posted by 杉山菜穂子 at 2012年09月16日 19:57
コメントありがとうございます。でもちょっと反応に困った。

> まず、屋上の少年は〜

「屋上に誰がいたか」自体ではなく、「『飛び降りという行為』が無視されたまま話が進む」ことが作劇上の瑕疵であると言っています。

> この映画の主題は菊池が全ての才能を〜

ちょっと面倒な話をします。

あのラストでヒロキが電話をかけたのは、前田の「別に映画監督になるつもりはない、傑作を作る映画監督と同じ道に立っていたいだけ」という言葉に救われ、桐島に対するコンプレックスから脱却できたから……と、自分も解釈したいのですが、「電話をかけた」だけではそうと特定できない、と書いたつもりです。

わかると思いますが、本作には「桐島」は登場しません。だから「桐島=実在しない」という解釈が可能です。
文中にもちらと書きましたが「桐島=キリスト≒神」という解釈があります。その場合、この物語は「神の不在に右往左往する信徒の話」となり、あのラストシーンで「コール音が続く」だと、「やっぱり神はいなかった」という結論になりえます。
僕はそういう、「信徒がただ嘆くだけの話である」という解釈は嫌なのです。神を信じて進むなら、何らかの「よろこび」があってもよいのではないでしょうか。

それに、「神云々」という解釈にならざるをえない話なら、ここまで高校生活をリアルに描くとかえっていびつに感じます。
そんなわけで、「コール音が切れる」ことで「桐島は実在する」を明示すべきだったのではないか、と思うのです。
Posted by アッシュ at 2012年09月17日 22:08
ごめんなさい。混乱させて。

まず、飛び降りの件ですが、そう高い所から飛び降りたのではないのです。あの吹奏楽部の沢島が練習していた位置から屋上へ。だから危険行為ではなくそのこと自体はあまり問題ではないのでは?さらに、その生徒と上がってきた映画部は屋上の入り口ですれ違うので、飛び降りたのをみていたのはバスケしていたパーカーの彼がだけ。

桐島が神との解釈は某N氏の説であり、作った側はその意図は無かったと思います。面白い解釈ですが。でも、仮に神だとしても菊池が神のような絶対的存在(それは菊池の成長を阻んでいたもの、ただその場だけの逃げと安泰の拠り所となるもの)から自立していくのだと考えることができると思います。神不在というと絶望的ですが、形の無い物に頼らずに、自分に配られたカードを使い、自分の意思で自分らしく生きて行こうとのテーマを提示していると思います。

これで終りにします。最後の解釈については人それぞれですが。御気分を損ねてすみません。
Posted by 杉山 at 2012年09月18日 09:09
いえ気にしないで下さい、
コメントありがとうございました。

> その生徒と上がってきた映画部は屋上の入り口ですれ違う
映画部が上がってくるワンカットは、そういう意味でしたか。
でも、飛び降りた方向に着地するスペースなんてなかったような……
Posted by アッシュ at 2012年09月20日 01:26
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/292809381

この記事へのトラックバック