2014年05月01日

アクト・オブ・キリング

[採点不可]@シアターイメージフォーラム

 ずいぶん話題になっている、「現在では英雄扱いされている虐殺の加害者に、当時の虐殺の再現映画を作りたいといったら、加害者は喜んで応じてどう虐殺したか演じてみせてくれた」……という内容のドキュメンタリー。
 いわばリアル「ありふれた事件」。かの作品をやってさらにこれとは、シアター・イメージフォーラム、狙ってたな。
 
 さて、後半の展開を、それなりに真剣に、沈痛な思いで見ていたのだが。
 うーん……これって。

 ひねくれてんなぁ、といわれてもいっこうにかまわん。

 ラストに近いシーン。
 本作の「主人公」であるところのおじいちゃんは、1965年の事件の当事者なのだから、80歳近いはずである。
 そんな老体が突然えずいたら、カメラ止めて助けに行けよ!
 でもカメラはブレもせずに確実に被写体をとらえ続ける。

 というわけで、このシーンはアクシデントではない。予定された演技だ。ならば、他のシーンは?
 つまりこれこそが、彼のしたかった「アクト」なのだ。おそらく、当時はどうあれ現状の時勢を鑑みて、「このまま死んだら自分は虐殺者として名を残すことになる」と悟ったじいちゃんが、他の連中の汚名は倍付けにしてでも、自分自身だけは反省文的なものを祭り上げて、作中で罵られる「人権屋」どもの喜びそうな尊厳とか人間性とかで美化して人生の逃げ切りを決める、というエゴむき出しで作った一発逆転の大芝居。
 それが本作の真相であろう。
 悪党はどこまでも悪党である。こうでなくてはいけない。

 作中でもぽろりと言っているではないか。「精神科医にかかったら、自分は精神病扱いされる」と。現代的な価値観とは病的に相違していることを、彼は最初からきちんと自覚した上で「撮影」に臨んでいるのだ。


 かつて、討論番組で「どうして人を殺してはいけないのか」と高校生に尋ねられ、吉本隆明だったか大江健三郎だったかが返答に窮した上、後に負け惜しみのように「そんな質問が出るなんて世も末だ」的な、回答にならない回答でお茶を濁したようなできごとがあった。
 そういう者は、「因果応報を悟る」的な倫理観の教科書みたいな回答に帰着する(ようにみえる)この作品を喜ぶだろう。

 「どうして人を殺してはいけないのか」、自分には一つ明確な答えがある。本作でその回答の正しさを再認識した気がする。
 宗教や倫理や法律がどう論じようと、「無条件に人を殺してはいけない」が正しいなら、戦争も死刑も、それこそ正当防衛もできはしない。逆に言えば、「条件」を満たせば人は殺してもよいのである。その条件付けをされれば僕だってきっと人を殺すだろう。
 その「条件」についてことさらには書かないけれど、当時のインドネシアは(むろん、かつての日本を含め歴史的にいえばどの国でも)容易に満たしたわけだ。それは個人の問題ではない。今さら、彼ら殺人の実行者をスケープゴートのように現代に引きずり出して、どうにかなる話ではない。
 そして、思想家や宗教家が自らの理を叫べば叫ぶほど、その「条件」を助長せしめるっていう人倫の限界を、異常だと思われている加害者たちの方がよほど深く知悉していて、せせら笑ってるんじゃないだろうか。



映画パンフレット アクト・オブ・キリング / フラットリテイル映画パンフレット アクト・オブ・キリング
posted by アッシュ at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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